風が舞う

    

ステージに青いスポットライトが向けられると、バンドが既に立っていた。

手に抱えている楽器からは、電子楽器特有のざらついたノイズが苛立っている。

ライブの開始を知った観客がステージに歓声を投げつけ、その声が2、3発ぶつかると反射的にギターの弦が勢いよく弾かれた。

音の塊が宙に飛び出し、少しだけ熱を冷ますと、情熱的なフレーズになって降り注ぎ、場内には一瞬で緊張が走った。空風ビュービュー投下開始。 

気付け代わりのジャブが配られると、ヨロイを着たリスキーが厳粛に歩み寄り、マイクスタンドが立つ場所で客席の虚空を睨む。

数秒間、客席に黙して応戦したリスキーは上体を起こすと、一転、殴りつけるように空間のキャンパス目掛けて歌を彩り始めた。

しゃがれても伸びる声は刀となり、観客一人一人のへその緒を切って、見つめる者の心は産声を上げた。

 

2004年10月の高円寺。酒を飲んで夜を過ごしたリスキーとミツマサとイケちゃんは、駅前のそば屋で朝飯を食べていた。

リスキーとミツマサはカツ丼。イケちゃんは山菜そば。

肉をほおばりながらミツマサは『見ていて楽しくなるバンド、ロックと演劇を合わせたようなエンターテイメントがやりたい。』と言った。

彼らは数日前にバンドを組んだばかりだ。『とにかく、見ていて、体が動き出すようなバンドがいい。』3人は朝飯を残らずたいらげた。

 

リスキーがドラムを叩いていた『大』が解散して、同じく解散した『JellyRollers』のギター ミツマサを誘い、

『Bobby’S Bar』のドラム イケちゃんも引き入れて空風ビュービューは始まった。

バンド名は『空風ビュービュー』とした。ビュービューというのは造語で、リスキーの友人である修吾というプロボクサーが、

きれいな女性を見て、風に向かうようだと捻り出したものだ。

それに、ミツマサが空風を付けて『空風ビュービュー』という名前ができた。

 

ミツマサは空海の生き方に感銘を受け、16歳の時に単身、佐賀から上京した。野方の音楽学校に通いJazzやロカビリーに傾倒した。

そのミツマサとリスキーが数曲書き下ろし、初期の空風ビュービューは練習スタジオでまだ見ぬ観客に向かって歌う日々を続けた。

 

2005年3月。ドラムのイケちゃんが抜けることになり、入れ替わりで、ベースにシュウ、ドラムにケイが入った。

 

シュウは鹿児島から上京後、早稲田の新聞店に勤め、傍らギターを弾いていた。

まだ、バンドを組んだことは無かったが、荷揚げの仕事に移った時、リスキーに出会い意気投合し、初めてバンドを組み、ベースを弾くことにした。

 

2005年4月。初台Wallで初ライブを行った後、リスキーは眉間に皺を寄せていた。

その表情は、青森から上京したての頃にそっくりだった。

 

当時、リスキーは豪徳寺で、新聞奨学生をしながら予備校に通っていた。時々、『足の先から機械になっていくようだ。』と漏らしていた。

時折、叫び出しそうな、もがいているような表情をする時がある。そんな表情を初ライブ後のリスキーはしていた。

しばらくして、リスキーは武士のようなヨロイを着てステージに立つようになった。

 

2005年10月。ケイがバンドを抜けた。ライブができない日々がしばらく続いたが、そんな中、新しくマッツがドラムとして入った。

 

マッツはもともと『大』でリスキーと一緒にギターを弾いていた。

マッツには、器用なところがあり、上京後通った音楽学校ではキーボードを弾き作曲を学んだ。

また、地元の島根にいる頃、ヘルプでドラムを叩いていた経験もあるので、『大』解散後はドラムとして幾つかのバンドを渡り歩いていた。

 

2006年4月。空風ビュービューはGooDLucK RECORDSに籍をおくことになった。

その後、自主企画『大宇宙爆発ロック祭り』を立上げ、様々なバンドとライブを重ね精力的に活動を続けている。

 

 

青森、島根、佐賀、鹿児島。北と南から東京を目指した若者は、集まって空風ビュービューとなり自然と唄い出した。

空に風が舞うように、風が空しく吹くように。

空風ビュービューはヨロイを着て戦場の虚空を見つめる。

観客とバンドがぶつかった場所で、新しいロックの夜明けを迎えるために。

ロックの朝は、また夜になるから、いつまでも空風ビュービューは唄い続ける。この夜を超えて行くために。

 

2006 8 16


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